レビー小体型認知症(DLB)を発見したのは、小阪憲司先生(2023年3月16日ご逝去)です。この連載コラムでは、小阪憲司先生の業績を中心に、DLB診療の進歩について、医療・医学に詳しくない方でも理解しやすいように努めて記述していきたいと思います。(文責:鵜飼克行、総合上飯田第一病院・老年精神科・部長)
連載:第12回
「レビー小体病」「びまん性レビー小体病」概念の提出(その1)
1975年に名古屋大学医学部精神科から東京都精神医学総合研究所に転籍した小阪先生は、1977年に西ドイツ(現ドイツ)・ミュンヘンのMax-Plank(マックス・プランク)精神医学研究所に留学しました。
小阪先生が名古屋大学から東京都精神医学総合研究所に移籍した理由については、「当時の名古屋大学は、まだまだ学生運動が盛んで、『研究は悪』という風潮だった。研究できる状況じゃなかった」と仰っていました。
注1:今の若い方は、「西ドイツ」「学生運動」と聞いても、ピンとこない方が多いと思いますので、少し説明します。
第2次世界大戦において、ヒトラー率いる「ナチス・ドイツ」は、西からは米国・英国を主体とした連合軍に、東からはソビエト連邦軍に攻撃され、崩壊しました。このため、ドイツは、自由主義陣営となる西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と、共産主義陣営の東ドイツ(ドイツ民主共和国)とに分裂しました(冷戦の開始)。1990年に、約半世紀ぶりに、両ドイツは再び統合されました。
学生運動とは、狭義には、1960年の安保闘争(日米安全保障条約改定反対運動)から1970年頃の全共闘(全学共闘会議)運動のことを意味すると思います。この頃の大学生・大学院生を中心とした人々が、学生生活や政治に対して問題提起や社会運動を行いましたが、一部の武装した暴力的な運動がエスカレート、内ゲバ(内部ゲバルト:ゲバルトはドイツ語で暴力の意味です)も起こって、多くの死者が出てしまったこともあり、その勢いは終息したそうです。しかし、この学生運動の影響は、筆者が名古屋大学医学部精神科に入局した1995年でも感じられました(「臨床に専念せず、研究しているような医者は、不届き者だ」という雰囲気です。現在は、そんな雰囲気は全くなくなっており、「臨床も・研究もできる医者こそが立派な医者である」とされ、皆から一目置かれるようです)。

小阪先生の留学先はドイツでしたので、筆者との共著論文での校正の時には、「英語はそんなに得意じゃないんだよ、ドイツ語の方がまし」と謙遜されて、仰っていました。筆者にとって、懐かしい思い出の一つです。
現在、日本人研究者が発表する論文は、ほとんどが英語(米語)です。日本の雑誌でも、英語でしか受け付けてもらえない雑誌(国際雑誌)も多くあります。日本語専用の雑誌には日本語で書きますが、大学や研究機関などでは、「日本語での論文は、論文ではない(仕事として認めない)」などと言われてしまうこともよくあります。現代社会では、英語が国際共通語ですので、英語での執筆はやむを得ないことですが、AI(artificial intelligence:人工知能)がどんどん進歩すれば、どんな言語で書いても、世界中の人に読んでもらえるようになるかもしれませんね。早くそうなって欲しいです。


筆者の息子が出張中に撮影した写真です。

ミュンヘンは小阪先生の留学先でした。今から約半世紀も昔の話ですね。小阪先生はミュンヘンのニンフェンブルク城近くの古いアパートを借りてご家族4人で過ごしていたそうです(当時は超円安時代で生活も苦労されたようです)。
1979年、マックス・プランク精神医学研究所の教授との共著で、小阪先生は大脳皮質にレビー小体が多発する認知症のドイツ人2症例を英文(抄録は英・独両文)で報告し、アルツハイマー病の病理を合併してはいるが、この2症例は「新しい認知症性疾患」である可能性が高いことを報告しました。
この症例報告論文は、欧州で初めてとなるレビー小体型認知症(DLB)の報告でした。

当時(今から約半世紀前!)の研究所の玄関の前での撮影でしょうか。

黄色い車を見ると、年月の流れが感じられますね。
この写真は、小阪先生の御長男である小阪彰伯さんからお借りしました。
連載第12回はここまでとします。第13回で、またお会いしましょう。
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